日常 -Treasure-
ジリリリッ。という古風な音で、私は目が醒めた。
いつもならもう少し布団の中にいるのだが、何故だか今日は目覚めがいい。
ベッド脇でけたたましく鳴り続ける、頭に二つの大きなベルをつけた、昔馴染みの目覚まし時計を手に取り、カチッと止める。
ベッドから降りて、私は壁にかけてある制服を手に取る。高校の制服だ。紺のブレザーという、いたって普通な制服。少し地味かも。
「
階下から、母親の呼ぶ声が聞こえる。私は手早く着替えると、部屋を後にした。
「お母さん、おはよう」
「おはよう、美稲。早く食べちゃいなさいな。冷めちゃうわよ」
はーい、と返事をし、私はテーブルに座った。
朝食はベーコンエッグと白飯、朝はいつもこれだ。
卵は半熟で、ベーコンはほんのりと焦げ目がついている。醤油をかけ、ベーコンと卵の白身、ご飯の順で口の中に運んでいく。
最後に残した卵の黄身を解し、一口分ほど残したご飯と絡める。そして口に・・・・。ん〜っ、おいしーっ。半熟さいこー!
「ご馳走様〜」
食器を台所に運び、顔と歯を磨く。そして学校鞄の中身を確認した。
「・・・・よしっ」
冷えた烏龍茶を一杯飲んで、口の中を潤した。
「いってきま〜す!」
「いってらっしゃい、美稲」
家を出ると同時に、朝の日差しに目が眩んだ。
まだ肌寒さは残るというものの、日差しはもう充分に春のそれだ。
手で目をかばうように影を作る。
指と指の間から漏れる輝きが、きらきらと舞った。
────世界は今日も、
それが良いことなのか悪いことなのか、わからないけど。
「それでも、いいんだよねっ」
何が良くて、何が悪くて。
何が正しくて、何が過ちで。
誰が良くて、誰が悪くて。
誰が正しくて、誰が過ちで。
そんなこと、わからなくても。
自分を信じて、自分の信じるものを信じて。
そうやって、歩いていけば、いい。
疑わず信じていくことが、間違いだなんてこと、ないんだから。
信じたものが例え間違っていても、信じることは、間違いなんかじゃないんだから。
だから──、歩こうっ。
時には迷ってもいいから。
時には立ち止まってもいいから。
時にはふり返ってもいいから。
ゆっくりでもいいから、歩いていこうっ。
『今』より大切なことなんて、ないんだから。
学校の近くには、公園がある。
とても小さい公園なのだが、そこに一度は寄るのが私の日課となっている。
まぁ、待ち合わせに使っているだけなのだが。
・・・・・待ち合わせと言うのも、どうなんだろう。
気付くとそうなっていて、お互いに約束しているわけでもないのだから、待ち合わせをしているとは言わない・・・のか?
兎も角。私は今もその公園に向けて歩いている。
この角を曲がれば、目の前にその小さな公園があり、そこのベンチで幸せそうに目を閉じて、日向ぼっこをしている彼女がいる。
そんな『いつも』を思いながら、角を曲がった。
「・・・・あれ?」
が、そこには思い描いた『いつも』が無く、ただがらんどうな公園だけが在った。
遅刻だ。
家を出る時間はいつも通りだった。
でも、途中出逢った猫と遊んでいたのがいけなかった。
あそこで猫に逢わなければ、手近な所に猫じゃらしなんか無ければ、きっと私は遅刻しなかっただろう。
・・・・・後悔してないけどね。
腕時計に目をやる。
八時十五分。学校が始まるのは八時三十分。まだまだ余裕がある。
余裕がないのは、もう一つの方。
友達との待ち合わせだ。
いつも彼女とは公園で待ち合わせしているのだが、その時間をもう五分過ぎてしまっている。
きっと、機嫌を悪くしているだろう。
すぐ直るだろうけどね。
まるで猫みたいに気まぐれで、寂しがりや。
「────っと」
この角を曲がれば公園だ。
立ち止まり、そっと様子を伺ってみる。
「・・・・・あ、いるいる」
公園には、女の子が一人いた。腕を組んで、ベンチに腰掛けている。
背中の真ん中辺りまでの長さの黒髪を、後ろで束ねただけのポニーテール。
適当なようだが、その髪型が彼女には結構似合っている。髪も綺麗だから雑な感じもしない。
ちょっぴり、見惚れた。
「・・・・ふふっ。このまま置いてっちゃおうかなぁ」
そんなイタズラ心が芽生えた。が、幾らなんでもそれは酷いし、彼女との関係を悪化させたくもない。
結局、私は彼女の所へ。
いつも通りを、私は望んだ。
今からでも、遅くはないから。
いつも通りを、彼女と一緒に。
いつも通りの時間に来ない。
今までこんな事はなかったが、私がここに来ると同時に彼女が来たことはある。
遅刻とまではいかないが、そういうことはあった。
きっと、道中猫と戯れていたりしたのだろう。制服に動物の毛が付いていたし。犬は苦手だと言っているから、きっと猫だ。
・・・・犬の方が忠誠心あっていいと思うのだが。まぁ、そんな事はどうでもいい。
問題は本当に彼女が遅刻なのか否か、だ。
もしかしたら病欠かもしれない。はたまた事故に合ったのかもしれない。
・・・・心配だ。そんなこと、そうそうないだろうが。それでも、心配だ。
五年先も、十年先も、絶対にあるなんて、私には信じられない。
ひとなんて、簡単に失くなってしまうものだ。そんなの嫌だと、何度叫んだところで。
「・・・・・・ネガティブだなぁ、私って」
改善しようなんて気、さらさらないけど。
ちらりと、彼女がいつも通る道を見る。
彼女はまだ──いや、丁度角を曲がった所だ。
私の視線に気が付くと手を振って、走ってきた。
「りーあー! ・・・・・ごめん! 遅れた!」
私のとこまで来ると、両手をぱしんと合わせ、少女は謝った。
ふわり、と。
同時にウェーブがかった栗色の髪が、静かに舞う。腰ほどまで伸びたそれは、繊細な風で、とてもやわらかい。
あぁ・・・思ったとおり。
思わず少し、笑ってしまった。
「ん? どうしたの?」
不思議そうに小首をかしげる美稲。そんな彼女のスカートを指差す。
「毛が付いてるよ」
あっ! と少女は驚き、ぱたぱたとスカートをはたいた。
「どかな? 取れてるよね?」
「ん。大丈夫みたい」
「猫とでも遊んでたんでしょ?」
「せいか〜い! よくわかったね?」
「どんだけ一緒にいると思ってるのよ」
「えへへ〜、もう何年になるのかなぁ?」
「十年は一緒にいるよねぇ」
「そうだね〜。幼馴染って感じだよね〜」
他愛もない会話だけど、それがとても楽しくて、『大切』だから、そんな『今』が、続いて欲しいと私は想う。
『特別』でも、『ただ』でもなく、本当に『大切』だと想えるこの刹那が、これから『先』もあって欲しいと、私は願う。
学校に着いた。八時二十分。
教室内は、朝独特の喧騒で包まれている。
ほとんどの人間が、友達と四五人の輪を作り、和気藹々と雑談中。
例えばそれは、昨日のドラマの話だったり。
例えばそれは、アイドルの話だったり。
本の話だったり。映画の話だったり。色々だ。十人十色。人それぞれに。
そんな中を私たちは横切り、私は最後尾、窓際の席へ。美稲はその前の席へ。
・・・・・席替えをしても、大抵はこうだ。
私が前か、美稲が後ろか。それだけの違いしか生まれない。
常に一緒。不思議なほどに。
成績もほぼ同じだったりする。得意教科は違うが。私は理系、美稲は文系。英語はお互い苦手としている。
と言っても、どれもそれほど天と地ほどの差があるわけでなく、ほんの僅かだ。
「──っと」
鞄を置き、中の勉強道具を取り出した。私は置き勉しない派だ。予習したりするし。
「一時限目ってなんだっけ?」
「古文」
「朝から古文って嫌だなぁ・・・」
「あんたは得意分野でしょ」
「得意と好きは別だよ〜」
まぁ、言われればそうだ。
「あ、もし寝てたら起こしてね?」
「他力本願」
まったくこの娘は・・・・。
「友情だよ〜」
「
出来るだけシニカルに言ってみた。
「
「・・・・・・・・・・そゆことを、さらりと言わない」「痛っ」
軽くチョップ。
「ぅ〜〜・・・・・・・・恥ずかしいから?」
さすがに私をよくわかってる。
そうですよ。恥ずかしいんですよ。そういう乙女ちっくな言葉は似合わないんだから、私は。
「あはっ。可愛い〜♪」
わかってて、そういう事を言ってくるんだから、タチが悪い。
悪いけど、でも、嫌いじゃない。それはきっと、美稲だから。
美稲だから、嫌いになれない。
好きだから、どんなに嫌な事をされても。どんなわがままだって。どんな裏切りだって。どんな言葉だって。
私はきっと、気にしない。
そしてそれは、美稲も。
そう思うのは、傲慢ですか?
「・・・・・・・・おはよう、美稲、
「おはよっ、
気づくと横に、智歩が立っていた。
いつにも増して、体調が悪そう。腰辺りまで伸びた、ストレートの髪もぼさぼさだ。
「おはよう、千歩。今日も寝不足?」
「うぅ〜・・・一時限目ってなぁに〜?」
「古文だって」
「あ、そ。じゃ寝るわ。おやすみ」
言うと彼女は、一秒も惜しいと言わんばかりに、自分の席──美稲の前──に座り、鞄を枕に寝始めた。
「・・・・・本当に朝だけは弱いんだから」
「あはは・・・そうだね。・・・・あ、眼鏡外してないけど、いいのかな?」
「知らな〜い」
そんな風に、他愛もない会話をしていると、ショートホームルームを知らせる予鈴が鳴り響いた。
色々飛ばして昼休み。
私は屋上にいる。片手にはクリームパンと紅茶。今日のお昼だ。
周りには誰もいない。
それも当然、ここは立ち入り禁止となっている。
詳しくは知らないが、昔飛び降りた人がいたらしい。
同じ年頃だからかな、私にもなんとなくその気持ちがわかる。
んー・・・ちょっと違うか。なんとなく私もそう思う時があるってだけで、やっぱりその子の気持ちはわからない。
だって私はその子じゃないから。
その子にはその子なりの理由があったんだろうから。
それが失恋なのか、イジメなのか、そういうのとはまた違うモノなのかはわからないけど。
その子はきっと後悔してないんだろうな。
だって・・・自分で選んだ道だから。
「美稲。またここにいたの?」
「あ、梨亜」
気づくと隣で、呆れ顔の梨亜が、牛乳を飲んでいた。
「あんまり入り浸ってるとバレちゃうよ〜? あ、これ持ってて」
牛乳のパックを私に渡すと、もう片方の手に持っていたカレーパンの袋を、ビリリッと軽快な音をたてながら開けた。
「ん、ありがと」
パックを返すと、梨亜はその場にペタンと腰を下ろした。私もそれに倣って座り、クリームパンを食べる。
「・・・・・もぐもぐ」
「・・・・・もふもふ」
無言での昼食が続いた。
お互いそれほど食べる方ではなく、いつもパン一つだけ。
「ご馳走様」
「お粗末さまでした」
「や、作ったのあんたじゃないでしょ」
「言ってみただけ。はい、牛乳」
「ありがと」
「そういえば最近、牛乳ばっかり飲んでるね」
ふと思った疑問を聞くと。
「・・・・・ん、まぁ。なんていうかさ、もうちょっと欲しいかなぁって」
さりげなく目を逸らしながら、梨亜はそう答えた。心なしか顔が赤い気がする。あっ、それは暑いからか。
「背? 別に女の子なんだから、そのぐらいでもいいんじゃないかな?」
私と梨亜の背は、大体同じだが、ほんの少しだけ、梨亜が高い。
ほんの少しだけ。
本っ当に、ほんの少しだけ。
・・・・私も飲もうかな、牛乳。
「あー・・・うー・・・まぁ・・・そうかもだけど・・・」
珍しく梨亜が濁した物言いをする。
なんでだろ?
「まぁ、それは兎も角。次、小テストだよ」
「えぇ〜〜!? って、勉強してきたから平気ー」
「この優等生め」
「優等生ならこんなとこにいないよー」
それに優等生とか、そういうのは好きじゃないし。なんか大変そう。
ほら、固定イメージってあるじゃない? 委員長なら委員長って感じに。
そういうのと同じで、一度周りに優等生って思われたら、それらしい行動を求められて自分らしさを制限されると思うんだよね。
友達関係も、らしいので固めなきゃならないだろうし。こうやって屋上に来ることだって、バレたら大変。『もっとみんなの模範となるように・・・』ってね。
「やっぱり今のままがいいよねー」
「? ・・・・どうしたのよ急に」
「えへへ、ちょっとね」
怪訝な表情をする梨亜に、いつも通りに笑いかける。
それでも梨亜の表情が緩むことはなかったけど、まぁいいかとでも言うように、肩を竦めて空を見た。
「いい天気だわぁー」
「そうだねー」
「次、サボっちゃう?」
「や、さすがに小テストは駄目でしょ」
自習だったら、そうしたかもしれないけど。
・・・それにしても。
「ほんと、いい天気ぃーー!!」
ぐーっと伸びをして、言う。
夏が、近かった。
暑くて、嫌になることもあるけれど。
でも、夏は好き。
毎年、何かが同じようで違い、違うようで同じ。
そんな夏が、私は好き。
・・・ううん、本当は、毎年違うんだ。
どの季節も。
ただ、気づいてないだけで、きっと。
今年は、気づけるようになろう。
思い出の、一つになるように。
どきどき。わくわく。
夏っていうのは、いつもそんな気持ちにさせてくれる。
毎年来るのに、その気持ちは他の季節よりもずっと強くて。
なんだろう。
なにかを期待してしまう。
でもそれは、今だけに許されているのかもしれない。
大人になったら、多忙に流され、そんな気持ちも味わえなくなってしまうだろう。
十代。学生。思春期。
そんな今にだけ、許された。
大切な、気持ち。
「美稲。今年は、海にでも行こうか?」
何となしにそう言うと、美稲は
「海かー・・・いいねっ、そういうのも」
「海に行って、不味い焼きそば食べて」
「シロップでべたべたのカキ氷食べて」
「イチャついてるカップルにちょっぴり嫉妬して」
「大胆な水着を着た人に、こっちが赤面しちゃって」
いつか来る、その日に思いを馳せながら、私たちは笑いあった。
「そんでもって、夕日に染まる海に大きく叫ぶの」
「なんて?」
私は、にやりと笑って言う。
「来年も、美稲と来るぞー、ってね」
恥ずかしかったけど、そう言ってみた。
すると美稲が、じゃぁ、と。
「来年も、梨亜と来るぞー、って私は叫ぶね」
また夏が来て、秋が来て、冬が来て、春が来て。
また春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て。
そんな、なんとことのない季節の
でもそれは、絶対に忘れちゃいけないこと。
当然だと思っていちゃ、いけないこと。
『また』なんて、絶対あるわけじゃ、ないんだから。
だから────、『明日』に続く『今日』を、私たちは、後悔しながら生きていく。
Fin